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2013.11.14
昭和7年4月号その5

陣中於て策戰中の植田〇團長
益々募る支那軍の暴戾增長を膺徵して在留邦人並びに外國人の生命財産を保護し、國際都市上海を一日も早く常態に復せしめるために植田謙吉中將は第〇師團の貔貅(ひきゅう)を率ゐて動亂の上海に出征した。獨身將軍で知られた中將は我が陸軍の逸材、元京都第十六師團長の南次郎大将及び前第十九師團長森壽中將と共に、曾つては騎兵科出身師團長の三羽烏に數へられた勇將である。明治三十二年少尉任官と共に騎兵第一聯隊を振出しに同四十二年陸大卒業、以來トン〃拍子に昇進して大正十三年豐橋騎兵第三旅團長に補せられ、一昨年十二月廿五日支那軍駐屯軍から現職に着任したのである。寫眞は陣中に於て策戰をこらす植田〇團長とその幕僚である。

動物のことで、勇ましい兵卒の例えにもされ
てます。(左図)日本軍は、上海攻略を外国
人保護を名目としてます。しかし欧米各国は
その事をどう捉えていたのか。当時の日本は、
欧米と事を構える気はなかったはずで、その
辺をどう説明してたのか気になるところです。


上海に活躍する勇將達
先に、上海の事態が愈々重大性を帶びて來たので、我が國では臨時第〇艦隊を組織して野村吉三郎中將をその司令官に任じ、上海方面にある各艦隊および陸戰隊を統率せしめる事となつた。然し上海の情勢は益々紛亂の一途をを辿り、終熄の模様なく、支那側は盛んに同方面に兵を集中し、ために在留居留民は極度の不安に襲はれるに至っため、我が國は遂に所要陸兵を派遣する事に決し、不取敢下元混成〇團を急派し、同部隊は二月七日上海に上陸、勇敢にも敵前上陸を敢行して直ちに敵を猛擊したが、我が軍が上海が國際都市なるが故に、積極的行動に出でず、ひたすらに支那側の反省撤退を待つの態度に出るや、支那側は却ってこれを侮蔑して攻擊の手を弛めず爲めに我が國は更に植田〇團長の統率する前原〇團及び小野〇團の部隊を增派し海軍と協力せしめる事となつた。同部隊も二月十四日上海方面に到着し、陸に植田第〇團長、海に野村第〇艦隊司令官がガツチリと組んで、支那軍に敵對した。然るに敵は上海附近に更に警衛軍を增援せしめたので、我が國は又々兵力を增遣し第〇〇團と共に上海派遣軍とし陸軍大將白川義則をしてその指揮を執らしめる事となり右の增遣部隊の一部は二月廿九日軍司令部は三月一日何れも上海附近に上陸した。
(右頁下圖)松下〇兵大尉から敵狀報告を聴く下元〇團長(右頁上圖)防彈具をつけた前原〇團長と其の幕僚
(左頁上圖)第〇〇團司令部で戰略を練る小野〇團長と酒匂第〇〇隊長
(左頁下圖)第〇艦隊司令長官野村中將の勇姿である。
解説:日本と欧米列強国の半植民地と化していた当時の中国。そのことに対する反発も大きく、中国保安隊による居留日本人の惨殺事件が数年後に起こっています。(通州事件)
当時の中国内武装勢力は、国民党軍、共産党軍、中小軍閥に分かれており、事を複雑にしていました。

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2013.11.04
昭和7年4月号その4

江灣鎭の激戰
二月十八日遂に我が軍は支那軍に對した最後通牒を突きつけるの已むなきに至つたが、支那側は頑迷にもこれを拒絶し來つたので、翌十九日植田〇團長は憤然として總攻擊を發した。總攻擊令今や遲しと待ち構へてゐた我が将士は勇躍して攻擊を開始し、敵を退却せしめたが、江灣鎭の堅固な陣地に逃げ込んだ敵兵は、死物狂ひの抵抗を續けたので、我が軍は江灣鎭は包圍するの隊形を以て、その周圍の前線に戰車、機關銃隊を送り、復旦大學附近に野砲、山砲重砲の陣列をしいて敵陣を猛射亂射し、海軍機また江灣鎭上空から爆擊を加へて、廿一日には殆どこれを陥落した。
(上圖)装甲車の掩護の下に前進する我が歩兵隊
(下圖)江灣鎭方面に前進する第〇〇
解説:江湾鎮は上海市の沿岸に近い場所で、近くに欧米や日本の共同租界がありました。戦略的にも重要な地なのかもしれませんが、日本軍にとって、「ここに兵を進めることは租界の住民保護のため。」という名目が立つ距離ですね。また、航空機や戦車など、第一次大戦で実用化された兵器が、十数年を経て常備化されている様子が伺えます。

※現在の上海市街地図における江湾鎮と当時の租界

江灣競馬場附近の我が砲兵陣地
江灣競馬場および東軆育會館附近にあつた敵は、中々頑强に抵抗しつゝあつたが、我が軍の正面攻擊と左翼〇〇團の左側からの掩護砲擊によつて廿日午前九時半には退却總崩れとなり、我が軍は息もつがせずこれを追擊した。寫眞は競馬場附近に陣地を築き砲擊を開始せんとする我が砲兵陣地(上)
吳淞の最前線へ彈藥運搬の我が軍
吳淞の敵兵は、中々頑强に抵抗して、我が陸、海、空三軍の猛襲を以てしても、容易にその全部を拔く事は出來ないでゐたが三月三日に至り遂にこれを占據した。寫眞は、吳淞の最前線に、頑强に抵抗する敵兵に對して不眠不休の努力を續けてゐる我が将士に彈藥運搬の我が軍である。(下)
解説:競馬場とか体育館は、欧米諸国が建てた施設だろうと思われます。この頃の中国は、欧米と日本の草刈り場といって良いでしょう。その中国に攻め入った日本は、5大国のひとつとして欧米と肩を並べたつもりでいたのかもしれませんが、彼らのいい手駒にされてたのかもしれません。

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2013.10.23
昭和7年4月号その3

上海に於ける皇軍の活躍
上海附近に集中した支那軍は、わが平和交渉を拒絶して撤退に應ぜず遂に我が軍は二月十八日最後通牒を突きつけて總攻擊開始の已むなきに至り、問題は愈々重大性を帶びて來たが、二月上旬、上海附近にあつた支那軍は蔡廷楷の第十九路軍であつて、第一線は沈光漢の第六十師約一萬一千、第二線は無炳濤の第六十一師約一萬一千、第三線は區濤の第七十八師約一萬(事件以來第一線において我が軍と交戰したため大損害を受けた)で、なほ眞茹、蘇州間の地區には警衛第三師、南京附近には警衛第一師が集中し、更に新編抗日決死隊廿二隊並に飛行隊若干も戰線に加入してゐた。これ等の大軍は無責任な政治家、暴戾な軍閥の煽動と暗愚な群集の阿付によつて增長その極に達し、何時どんな暴擧を測り知れない情勢にあり、一方我が陸戰隊は、十數倍の支那軍を控へて、事件勃發以來眞に不眠不休の努力を續けて居り、我が居留民は極度の不安に軀られる状態にあつた。こゝに於いて我が國は、所要の陸軍兵力を上海に派遣して、支那軍の脅威を去り一日も早く上海の常態を回復して列國民の不安を除くこととし、不取敢第十二師團から混成一旅團を上海方面に急派し、同派遣隊は二月七日上海に上陸したが、續いて第九師團を基幹をする部隊を同方面に派遣するに決し同部隊は二月十四日上海に上陸して從來の海軍力と協力して支那軍に當ることになつたのである。寫眞は高塔路の陸戰隊と交代して交戰中の我が陸軍〇〇隊である。
解説:この頃の上海は、魔都と呼ばれるくらい、繁栄と退廃を併せ持った極東一の大都会でした。それは、租界地として開発された経緯からくるものといえます。国民党政府の権力が及ばない土地に、日本を含めて各国の自治体みたいな区域が出来上がってたわけですから。(各国の警察組織が存在してた)治外法権的な危ない街だけど、規制が少ない分ある意味自由な空間があり、経済的に大きく発展しやすかったようです。今の日本でも経済特区などというのをやってますが、上海における租界の焼き直しみたいなものです。

上海の外灘(バンド)1930年代

高射機關銃隊の活躍
二月廿二日午後支那軍の米國製ボーイング式飛行機がわが海軍機と壮烈な空中戰を演じて、射落されたがその操從士は米人飛行士ロバートシヨートであつた。そしてまだ支那軍に參加してゐる米國飛行士が二人あると……これでは支那の飛行機とて中々馬鹿には出來ない。寫眞は支那軍飛行機に備へて吳淞方面で活躍中の我高射機關銃隊(上)
我が機銃車隊の活躍
今度の事變では、支那軍も驚く程色々新鋭の武器を以つて抵抗したが、我が軍でも或いは装甲車、或いは一人で自由に携帶し活動し得る輕機銃、又はサイドカーに重機關銃を搭載した移動の極めて自由な而も威力の大きい機銃車等の新鋭武器を以て對峙した。寫眞は我が機銃車隊が、××機關庫を今正に出發せんとするところ(下)
解説:当時の日本は、ナチスドイツとの軍事同盟がまだ結ばれておらず、さりとてアメリカ合衆国と交戦状態でもありませんでした。しかし中国の軍事援助をアメリカとドイツが行っており、遠回しに両国と戦争してたようなもの。当時の日本が、国際的に孤立していたと考えられる状況です。

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2013.10.11
昭和7年4月号その2

滙山碼頭の陸揚作業
現在、上海において活躍する我が主力部隊植田〇團の上陸に先立つて、
二月七日には〇〇團が吳淞において壯烈なる敵前上陸を行ひ、
上陸直後數時を出ずして吳淞砲臺の右岸を占據し、非常な勳功を顯したが、
此處に掲げた寫眞は滙山碼頭における〇〇團後續部隊の陸上作業で
(上)は軍馬の陸揚(下)は軍需品の陸揚作業である。
解説:〇〇とあるのは軍事機密の伏せ字ですね。
第一次上海事変は、この年の1月〜3月にかけて起きてます。
一連の戦闘を通じて、日本側の戦死者は769名、負傷2322名。
中国軍の損害は1万4326人。36日間の戦闘によって上海全市で
約15億6千元の損害。中国側住民の死者は6080人、
負傷2000人、行方不明1万400人と発表されてます。(wiki調べ)
この戦闘は、空母が初めて実戦に参加した戦闘でもありました。

江灣鎭における我軍の最前線
二月十八日、支那軍に向かって發した我が最後通牒に對し傲慢無禮をもつてしたる
のみならず、更に蔡廷楷軍は中々頑强手向かひ、殊に上海附近に沼澤の多い關係か
ら我軍は敏活なる行動を阻止され、苦戦となつたが、あらゆる苦難に屈せぬ大和魂
の發露は遂に敵の大部分を撃破し、士氣愈々(いよいよ)旺盛、十九日の總攻撃開
始より數日にして江灣鎭を占據した。(寫眞は江灣鎭における我が第一線)
解説:蔡 廷楷は1892年
生まれの軍人・政治家。

1930年に国民党の軍である国民革命軍の19路軍軍長に就任。
この頃の国民革命軍の主たる敵は共産党軍で、日本軍が上海に進軍した時も、
撤退を蔡に勧めます。蔡はこれを拒否し、日本軍との衝突により
第一次上海事変が起こります。破れはしたものの、
圧倒的に不利な状況で果敢な抵抗を行ってます。
1968年、北京にて死去。

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2013.10.05
昭和7年4月号その1

はじめまして。
このブログは自宅の物置部屋にあった、
昭和初期のグラフ雑誌の内容を紹介するものです。
できるだけ私見を避けて、
淡々に事実だけを伝えるつもりなんですが、
たまには持論を展開するかもしれません。
そういった事を含めて、
このブログを進める過程から、
何らかの形が出来上がっていくかと思います。
コメントを通じて、
読者各位様の意見を伺えたら幸いです。
まずはこの記事から。

(古い資料に付き欠損部分があります、ご了承ください)
勝手違ひの陸上に奮戰した我が海軍部隊の活躍は
實に涙ぐましいものであつたが、多勢をたのむ支那兵と
對抗するには餘りに無勢である。我が陸軍部隊の上陸は
上海市民にとつて救世主であつた。上海市民の不安が
完全に去ったおは云へないまでも、暴虐な支那軍は今や
上海郊外に退いて、砲火銃劍の閃きに恐れ戰いた混亂は
次第に鎭定しつゝある。(寫眞は、吳淞附近の家屋上より
命中率を觀測する我が陸軍部隊である)
解説:この頃の上海は、アヘン戦争で
清に勝ったイギリスが租界として開いた港です。
つまりは清の権力が及ばない治外法権の土地で、
欧州各国と日本も、その権利を得るようになります。
その後上海事変を経て、日本の占領地となりました。
この記事では、日本軍は上海市民の味方であって、
それを害するのは支那軍という立場なようです。
※都合上コメントを認可制にしますが、
忌憚ない御意見をお待ちしております。

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